世界はあなたのコレクション

出掛けた場所で見たこと・読んだもの・考えたことを、いつか誰かと共有するために。

魔女の宅急便、未来の記憶

f:id:snowki:20141113232802j:plain

ネットで調べたら自転車で30分と書いてあったので、その情報を頼りに漕ぎ続けたところ、結局丸1時間かかりました。往復で2時間。『魔女の宅急便』でトンボがプロペラ付き自転車をキキを乗せて猛スピードで漕いだ後みたいに、脚ががくがくになりました。ガニ股でしか歩けない、みたいな。

優れたアニメーターは人間の動きを単にトレースするばかりでなく、人間の動きの記憶をトレースします。観客は映像を見て、自分の身体の記憶を呼び覚ますわけです。こんなふうに動いたら、確かにこんなふうに体を曲げるなとか、ああしているときは、確かにああいうふうな姿勢になるなとか、そういう記憶を思い出してゆくのです。

これはアニメーションに描かれた人間が生身の人間の動きを模倣するということですが、現実にはしばしばこれと正反対のことが起こります。つまり、生身の人間がアニメーションを模倣するのです。今回のぼくの体験などはまさにそれで、1989年に制作されたアニメーション映画における動きを今日再現してしまいました。

優れたアニメーターは過去の記憶を蘇らせると共に、未来の記憶を現前させます。「そうだった」過去の身体感覚と「そうだろう」未来の身体感覚を、今ありありと体感させる映像表現は、したがって過去の記憶を反復すると同時に未来の記憶を前もって反復しているのです。未来のある一時点(例えば今日の夕刻)において、自分の身体感覚が既に経験されたものであると感じられるのは、このようなわけです。

たぶん、優れたアニメーションで表現されたこの身体感覚というのは一個の真実であって、だからこそ過去にも未来にも共通する性格を持っているのだと思います。言い換えれば、真実は過去や未来を超越している。

生活していると、時折りこの真実に思いがけず遭遇することがあります。そういうとき、自分の行為が真実の光に照らされて見出され、何かを会得したような気持ちになりますが、実は真実の存在を思い出したに過ぎないのだと思います。

真実とは本質であり、何か原初的なものです。アニメーションというのは基本的にデフォルメを身上としており、つまりそれは余計な挟雑物を削ぎ落とした本質、原型であり、真実に肉薄します。

優れたアニメーターの描く「動き」を思い出すことも、やはり真実に接近する道のりなのだと思います。

実は文学フリマについて書こうとしたのですが、前置きが長くなってしまいました。次回が本題です。

秋――。

f:id:snowki:20141110010313j:plain

少し色づいてきた木叢。

たまたま座っていた場所から撮った一枚なのであんまり様子が分からないかもしれませんが、紅葉が新宿御苑にも忍び足でやって来たようです。

 

今日(11月9日)は酉の市の前夜祭を楽しみに新宿に行く予定があったので、ついでに新宿御苑にも寄りました。

そこで瀬山士郎『幾何物語』を読みながら、amazarashiの最新アルバム『夕日信仰ヒガシズム』をリピートしていました。『幾何物語』は以前読んだことがあるのですが、非ユークリッド幾何学について調べる必要が生じたので、その予習というか、肩慣らしとして改めて読むことにしたのです。

高校生のとき、数学のテストの点数はそれほどよくなかったのですが、数学は割と好きだったので、難しい数式の出てこない入門書であれば、今でも苦にせず読むことができます。とりわけ非ユークリッド幾何学は興味深い分野で、その概念の射程は極めて広いと思っています。ま、詳しいことは知りませんが。

amazarashiは震災の前から好きでしょっちゅう聴いています。『夕日信仰ヒガシズム』の中だったら、「雨男」という歌が一番好きですね。初めて聴いたときは打ち震えました。止まない雨はないなんて言うけれど、雨が止むのを待っていやしない、土砂降りの中を歩いていけるか?って、そっと肩に手を置いてくれる歌で、感激しました。

ところでこの日の午後はとても寒くて、冷たい風もよく通り抜けてゆくので、次第に集中して本を読むことができなくなりました。今思い返せばむしろ夜の方が暖かく感じられたほどこの時間帯は寒くて、体の芯から凍えました。

実はあまり想定してこなかったのですが、冬の新宿御苑で読書するのは現実的ではありません。もっとも、「ゆりのき」という食堂があるので、これからはそこで読書したり翻訳したりするのが通例になりそうです。

訳す、盗み聞く

(つづき)

新宿御苑の食堂「ゆりのき」で遅い昼食を取りました。

そのあと持参した英書を取り出して、翻訳開始。今月の初め頃から文学の研究書を日本語に訳しているのです。ただ、この10日間程は他の予定が押しており、毎日1頁だけしか訳せません。というか、1頁だけ訳すようにしています。それでも1時間以上かかります。もちろん、読むだけならそんなにかかりませんが、日本語に移し替えるとなると、悩ましい問題が次々と出て来て、どうしてもたくさんの時間がかかってしまいます。

ベテランの翻訳者なら、ひょっとするとサラサラ訳してしまえるのかもしれませんが、自分にはとても無理です。いちいち最適な日本語を考えていると1時間どころか1日経ってしまいそうなので、とりあえず下訳を作る気持ちで、適当に手を抜いています。それでも1頁1時間以上です。

残りはまだ350頁あって、気の遠くなる作業ですが、ルーティンワークにしようと目論んでいます。やはり勉強は継続が大事です。

ところで、翻訳している途中、近くの席に座っているカップルから何やら刺々しそうな会話が聞こえてきました。いや、具体的に何を言っているのかまでは聞き取れませんが、口調が刺々しいのです。詰問というか、静かに口論している感じ。

はぁ、やれやれ。やれやれだぜ。新宿御苑の食堂で何をやっているんだこの連中は。自分の中のいやあな記憶が思い出されてきて、鬱々とした気持ちに沈みかけましたが、必死に目の前の英語に集中しようとしました。でも、目は閉じることができても、耳は閉じることができません。嫌でも聞こえて来てしまいます。

やがて去ってゆきましたが、黒い波紋を残してゆきました。

いろんな人がいるもんですよ。

再び新宿御苑

色々あって、新宿御苑に行くことになりました。およそ2ヶ月ぶり。

ここのところ資料集めに奔走しており、その煽りで朝から不機嫌だったぼくは、出先からの帰宅途中、新宿御苑に立ち寄ることにしました。

前回行ったのは、どうやら8月30日らしいです。

以前ぼくは新宿御苑に「来た」と表現していましたが、今日は「行った」と書いています。無意識にしたことでしたが、これがもう随分長いこと御無沙汰だったことを物語っています。

2ヶ月前の猛暑がまるで夢だったように思えてきます。「たった2ヶ月」とも言えるのに、遥かな時を越して来たような、越して来てしまったような場違いな感覚。戸惑い。狼狽え。

元来ぼくは時間の進むのを意識するのが好きではなくて、いつまでも「いま・ここ」に留まりたい、いやむしろ遡りたいと願う性情の持ち主ですから、今日みたいに時間の経過を否応なく意識させられてしまうと、少しばかり不安になります。

今ぼくを不安にさせるほど今日の新宿御苑は寒かったのでした。午後から晴れると言う天気予報を天気は裏切り、新宿の空はどんよりと曇っていました。その空を遮る木叢の一枚一枚の葉はテラテラ光り、歩道には雨の重みに耐えきれなくなった茶色い葉っぱが幾枚も落ちて、アスファルトにへばり付き、あるいは土に同化しようとしています。

雨上がり特有の湿気、と言うより水気で空気がうるうるしているのが感じられ、ぼくはこの感じは好きなのでちょっとホッとしました。都会の喧騒はここでは耳に入らず、そのことも相俟って、予期していなかった安心感に胸が落ち着くのが分かりました。

ぼくは再びここに通い、再びここで本を読み、自然を眺め、物を考えることにします。

(つづく)