世界はあなたのコレクション

出掛けた場所で見たこと・読んだもの・考えたことを、いつか誰かと共有するために。

言の葉の

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新宿御苑新海誠監督『言の葉の庭』の舞台としても有名です。この写真は秋月くんと雪野さんが初めて出会った東屋。

ぼくが立ち寄る度にいつも誰かがいるので、これまで写真を撮る機会がありませんでしたが、なぜかこの日は幸いにして人影が無く、こうして写真に収めることができました。

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同じ東屋から眺めた景色。

この後ぼくはここに腰を下ろして、自分の書いた論文をしばらくの間チェックしていました。誰一人この東屋に足を踏み入れる者はいませんでした。いてもよかったんですけどね。

 

新宿御苑の入り口を抜けた途端、目に飛び込んできたのはモミジの赤。焼かれた鉄よりも赤く、キャンプファイヤーの炎よりも魅惑的で、また唇よりも瑞々しい。赤ん坊の掌みたいに小さなモミジの葉がそぼ濡れた地面に散り敷かれてもいました。傍では黄葉も盛りで、且つ常緑樹も曇天を覆っています。

この光景を写真に「移す」ことはできないと、思いました。その「移動」の過程で、たくさんのかけがえのないものが失われてしまう。ぼくの感嘆は伝わらない。この地上を絶する美を「移す」ことは叶わない。

それに――。

雨に濡れたアスファルトの匂い、風に葉の擦れる音、肌を刺す寒気、都会の喧騒が突然途絶えた戸惑い。このいずれを欠いても眼前の美は成り立ちません。

今日は写真を撮るまいと誓い、散策している内に、言の葉の東屋に人がいないのを見つけ……つい、この通り、写真を撮ってしまったのでした。弱さですね。

夢の副作用

72時間が嵐のように過ぎ去りました。

夢のように楽しかったです。

不幸せな体験が続いている人は、たまに訪れる幸せを恐ろしいと言いますが、別に不幸でも幸福でもないぼくもまた、そんな気持ちでいます。ちょっと怖い。

でも、不幸が幸福の仮面を被って訪れるのが本当だとしても、それはあざなえる縄のように順繰りにやって来るからそうなのではなく、少なくともぼくにとっては、それは少し違う意味合いを持っています。

楽しいことを体験して嬉しい気持ちが一段落すると、ふとした瞬間に(例えば翌朝の微睡みの中で)、「これから訪れる不幸」ではなく、「これまで訪れてきた不幸」が思い出されてしまうのです。これまでに幾度となくぼくという戸を叩き、ときに体を滑り込ませ、ときに土足で闖入してきた辛い体験、苦しい気持ち、孤独な不安。それらは必ずしも当時それと認識されていたわけではなく、いま幸せな気持ちになることで、それが不幸せな気持ちだったと直感的に閃くのです。

こうしてぼくは不幸せを二重に、最初は体験として経験し、次は認知として経験することになります。

だからぼくは幸せがちょっと怖くて、過去の自分を否定するほどの喜びに不安を覚えるのです。

それでもやっぱりぼくは楽しいことが好きで、何か凄いものに圧倒されたいし、素敵なものに心奪われたい。好きなものを好きでいたいし、新しく好きなものを作りたいし、好きな気持ちを広げたい、高めたい、深めたい。それはちょっと怖いことなんだけれども、でも求め続けたいと思う。

文フリは、とても楽しかったです。辛さは、なに、夢の副作用みたいなものです。

文学フリマ

で、本題です。

11月24日に東京流通センターで催される「文学フリマ」にちょっとだけ参加することになりました。下の二つの出店サークルの出版物に寄稿させていただいています。

・アマチュアで妥協

アマチュアで妥協@第十九回文学フリマB-05 - 文学フリマWebカタログ+エントリー

・Shiny Books


Shiny Books@第十九回文学フリマA-35〜36 - 文学フリマWebカタログ+エントリー

一つ目のサークル「アマチュアで妥協」では、文学の新人賞にけっこういいところまで残ったものの落選してしまった4人の小説を集めた作品集『らくせん』を販売します。ぼくは小説ではなく、解題的なものを書かせてもらいました。たぶんかなり分厚い本になると思いますし、内容的にも読み応えがあります。

『チビ男子』『純潔』『新しい明日への讃歌』『ヒア・ゼア・エブリウェア』という4作品が収められています。それぞれ個性が違うので、お気に入りの一作を見つけるつもりで読まれてもいいと思います。もちろん全部気に入っていただけるとうれしいです。

ぼくの巻末の文章は、かなりガチなやつです。クランチやツイッターやこのブログでしかぼくのことを知らない人たち(ほぼ全員だと思いますが)にとっては、けっこう意外に感じられるかもしれません。あと、ちょっと素性が割れるようなことも書いてしまってます。

さて、二つ目のサークル「Shiny Books」では、リトルプレス『アヴァンギャルドでいこうvol.2』と小説『黒い水 青白い光』に寄稿させていただいています。

前者には、amazarashiのMV『性善説』を観て自分なりに分析したことを書いています。MV(ミュージック・ビデオ)について書いた感想を活字にした経験はこれまでないので、ちょっと緊張しています。文学について書いたものを発表する際も緊張しますが、違う緊張感があります。

後者には、表題作の小説の解題を書かせていただきました。実はこれ、一年近く前にクランチマガジンというサイトにアップして、後に『CRUNCH BEST 2013』に掲載された文章が基になっていますので、今回が初出というわけではありません。ただし、今回のために大幅に書き改めたので、ひょっとしたら読後の印象は異なるかもしれません。

というわけで、二つのサークルに三つの文章を寄稿させていただいたことになります。ちなみに、これは文学フリマとは無関係ですが、これらの他にもあと二本の原稿を今月中に別々の媒体に寄稿することになっています(内一本は完成済みですが未送付)。あと、前にこのブログに書いた通り、自分で勝手に翻訳を進めています(まだ全体の6分の1も訳せていませんが)。

しかし、そのいずれもが金銭に直接結びつかないという状況です。まあ、何とかなるように戦略を練ってゆきたいと考えていますが、ぼくは書くのが好きだし、暇人なので、適当にやっていきます。

あくせくするより遊び心を大事にしたいです。っていうようなことを北大路魯山人もたぶん書いていました。あ、11月24日の文フリ会場には足を運ぶつもりです。上記二つのサークルにちょっかいを出していると思いますので、見かけたらよろしくお願いします。身長は178センチくらいです。

魔女の宅急便、未来の記憶

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ネットで調べたら自転車で30分と書いてあったので、その情報を頼りに漕ぎ続けたところ、結局丸1時間かかりました。往復で2時間。『魔女の宅急便』でトンボがプロペラ付き自転車をキキを乗せて猛スピードで漕いだ後みたいに、脚ががくがくになりました。ガニ股でしか歩けない、みたいな。

優れたアニメーターは人間の動きを単にトレースするばかりでなく、人間の動きの記憶をトレースします。観客は映像を見て、自分の身体の記憶を呼び覚ますわけです。こんなふうに動いたら、確かにこんなふうに体を曲げるなとか、ああしているときは、確かにああいうふうな姿勢になるなとか、そういう記憶を思い出してゆくのです。

これはアニメーションに描かれた人間が生身の人間の動きを模倣するということですが、現実にはしばしばこれと正反対のことが起こります。つまり、生身の人間がアニメーションを模倣するのです。今回のぼくの体験などはまさにそれで、1989年に制作されたアニメーション映画における動きを今日再現してしまいました。

優れたアニメーターは過去の記憶を蘇らせると共に、未来の記憶を現前させます。「そうだった」過去の身体感覚と「そうだろう」未来の身体感覚を、今ありありと体感させる映像表現は、したがって過去の記憶を反復すると同時に未来の記憶を前もって反復しているのです。未来のある一時点(例えば今日の夕刻)において、自分の身体感覚が既に経験されたものであると感じられるのは、このようなわけです。

たぶん、優れたアニメーションで表現されたこの身体感覚というのは一個の真実であって、だからこそ過去にも未来にも共通する性格を持っているのだと思います。言い換えれば、真実は過去や未来を超越している。

生活していると、時折りこの真実に思いがけず遭遇することがあります。そういうとき、自分の行為が真実の光に照らされて見出され、何かを会得したような気持ちになりますが、実は真実の存在を思い出したに過ぎないのだと思います。

真実とは本質であり、何か原初的なものです。アニメーションというのは基本的にデフォルメを身上としており、つまりそれは余計な挟雑物を削ぎ落とした本質、原型であり、真実に肉薄します。

優れたアニメーターの描く「動き」を思い出すことも、やはり真実に接近する道のりなのだと思います。

実は文学フリマについて書こうとしたのですが、前置きが長くなってしまいました。次回が本題です。