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世界はあなたのコレクション

出掛けた場所で見たこと・読んだもの・考えたことを、いつか誰かと共有するために。

似ているもの、喩えること

(前回のつづき)

板張りの床を這う蔦は、子どもが畳に寝そべっているみたいに見えました。

初めての物事に遭遇するとき、これはあれに似ていると思うことがあります。例えばAさんを紹介してもらったら、このAさんは小島よしおに似ているなと思ったりします(念のために付け加えておくと、ぼくの知り合いに小島よしおに似ている人はいません)。あるいはBさんに出会えば、猛禽類に似ているなと思ったりします(実は知っている人で猛禽類を思わせる顔の人がいます)。

こんなふうに、初めて誰かと対面したりすれば、その相貌に似ている人や物を記憶の中から探し出して、その二つを重ね合わせようとします。気に食わない人に似ていたら内心びくびくしてしまうし、死んだ友人に似ていたら胸が締め付けられる思いがします。

ところが、遭遇するのが人ではなく物だったらどうでしょうか。例えば青空に浮かぶ雲を見て、「あの雲は中3の秋に見上げた雲に形が似ている」と思ったりするでしょうか。路傍の石を「子どもの頃に河原で見つけたのと似ている」と拾い上げてまじまじと見つめたりするでしょうか。

たぶんほとんどしない。なぜならそういった物は一回きりの遭遇の果てにあっという間に過去へ押し流されるからです。

もちろん、人にしたって、スクランブル交差点ですれ違う全ての人々の顔を覚えていられるはずはなく、正面から歩いてくる人が9年前に新宿で信号待ちしていた人に似ていると思ったりすることはないはずです。

しかし人の顔や表情がしばしば別の人の顔や表情を想起させることがあるのに比べ、雲や石が別の雲や石を想起させることは余りありません。

これはどうしてかと言えば、人に対してするより注意深く雲や石を観察することがないからです。毎日のように学校の屋上で雲が姿形を移ろわせてゆくのを眺めたり、気に入った形の石を拾い集めて毎晩それらを矯めつ眇めつすることが少ないからです。人以外のものをそれほど注意深く観察することがないからです。

観察さえすれば、きっと「あの雲は高校時代に公園で眺めていた雲と同じような変化をするな」と感じることが(少なくとも今よりは)増えるはずです。

そんなふうにして世界中の物事をじっくり観察していれば、これはあれに似ていると思うことが増えると思うのです。したがって、これをあれに喩えるということも増えるはずです。似ていると思えば比べざるを得ないからです。

比喩というのは、その使い手が世界をどんなふうに見ているのかを示しているのと同時に、世界をどれだけ見ているのかを露わにしていると思います。

だから誰か気になる人の世界観を知りたければ、その手っ取り早い方法は、その人に眼前の風景を描写させることです。そうすれば大抵のことが分かってしまう。

比喩を手法と捉えて強引に捻り出そうとする行為をぼくは好みません。ぼくにとって比喩とは世界観の表明だからです。

炯眼の人にかかれば、一見すると似ていないもの同士を結び合わせることができます。究極的には、夕景に沈む街並みを手術室のツンとする臭いにさえ喩えるというようなことが可能だと思います。凡百の批評家はそれを奇抜とか斬新と評するかもしれませんが、しかしそのような比喩は優れた目を持った人の世界観をただ示しているに過ぎません。

 

板張りの床を這う蔦が子どもの寝そべっている様子に似ていると感じてから、ぼくは『寝ても覚めても』を読むのを中断し、こんなことをしばらく考えていました。

(まだつづきます)