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世界はあなたのコレクション

出掛けた場所で見たこと・読んだもの・考えたことを、いつか誰かと共有するために。

黒の中の緑、たとえ

新宿御苑

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「世界の万物はメタファーだ。(…)僕らはメタファーという装置をとおしてアイロニーを受け入れる」(『海辺のカフカ』)

海辺のカフカ』の登場人物(大島さん)は「世界の万物はメタファーだ」をゲーテの言葉だとしています。いまネットで少しばかり検索をかけてみたところ、残念ながらゲーテがそのように言ったという証拠、つまり出典を見つけることができませんでした。ただし、『ファウスト』の中に次のような詩行のあることが分かりました。「すべて移ろいゆくものは、/永遠なるものの比喩にすぎず」。

この詩行から「移ろいゆくもの」と「永遠なるもの」という限定句を削ぎ落とし、普遍化したものが大島さんの「世界の万物はメタファーだ」という言葉になります。したがって、両者は本来全然違うことを意味していると思われます。なぜなら、『ファウスト』では万物は「永遠なるもの」に還元されるのに対して、『海辺のカフカ』では万物は(メタファーという)関係性の網目の中にあるからです。

世界に存在するあるものは別のあるもののメタファーである。大島さんはそう言いたいのだとぼくは理解しました。大島さんは次のように説明を続けます。アイロニーとは人間の(欠点ではなく)美質によって悲劇がもたらされることであり、これはギリシャ悲劇の根本にある世界観だ、人間はそのようなアイロニーを悉く経験することはできないから、メタファーによって経験するのだと。

世界の万物がメタファーであれば、そのメタファーという装置を通して、人間は経験しえないものを経験することが可能になります。経験しえないものの一つがアイロニーというわけです。

ところでキリスト教福音書の中には、「たとえ」についての説法(という言い方が適切か分かりませんが)があります。例えば「マタイによる福音書」13章10-17節では、弟子たちがイエスにこう尋ねています。「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」。これに答えて曰く、「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。(…)だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」。

これが聖書解釈学においてどのように理解されているのかは寡聞にして知りませんが、少なくとも次のことは言えるように思います。つまり、理解しえないものを説明するためにたとえを用いているのだと。「天の国の秘密」という神秘や真実を理解できない者にそれを直接教えることはできないから、たとえ話をするというわけです。

「理解しえないもの」を「経験しえないもの」と言い換えれば、『海辺のカフカ』と「マタイによる福音書」は同じことを言っていることになります。

さて、ここまで1000文字を費やして「世界の万物はメタファーだ」というテーゼについて説明してきましたが、実はこれ、ぼく自身の世界観でもあります。ただ、いきなりぼくが「世界の万物はメタファーだ」と言っても怪訝に思われるでしょうから、『海辺のカフカ』と『聖書』にご登場いただいた次第です。

ではこの世界観によって何を言いたかったかといえば、前回書いた焦点と構図の話は、他の物事にも適用できるはずだということです。例えば小説に。世界の万物は、どんなに懸け離れているように見えるもの同士でも、互いに喩えることが可能なはずです。でももしも喩えることができないとしたら、その少なくともどちらかは「正しい<もの>」ではないのではないか――。そんなことに思いを巡らせていましたが、しかしどうやら8月13日の記録は長引き過ぎたようです。ここでお仕舞いにします。