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世界はあなたのコレクション

出掛けた場所で見たこと・読んだもの・考えたことを、いつか誰かと共有するために。

想像せよ、と彼は言う。

新宿御苑

土曜日の新宿御苑

曇ったり晴れ間が出たりと忙しい空の下、いつもの休憩所に腰を落ちつけて本を読み始めました。間もなくすると、すぐ近くの席に初老の夫婦が並んで座るのが視界に入りました。見覚えがある、とすぐに閃きました。たしか2-3週間前にも同じ場所でこの夫婦を目にしたのです。この人たちはこうして新宿御苑に通っているんだろうか――ちょっと嬉しい気もしましたし、また恥ずかしいような気もしましたが、やがて二人は席を立ち、どこかへ消えてゆきました。

涼やかな風が吹き通ります。

ぼくは再び頁に目を落としました。そのうち段々と読書に没入してゆきます。ふと気が付くと1時間を経過。それを腕時計で確認して、もう一度のめり込んでゆきます。時折り嗚咽を上げそうになりながら、鼻をぐじゅぐじゅ言わせながら、最後には涙が零れるので眼鏡を外し、裸眼のまま読みました。

いとうせいこう『想像ラジオ』。すばらしい小説だと思いました。

死者と生者との共生的関係を前提としているこの小説について、あるいはこの小説に触発されたことについて書きたいことはたくさんありますが、とりあえず一つに絞ってみます。

「想像せよ」という台詞が繰り返し出てきますが、「想像」は言うまでもなく『想像ラジオ』の基幹を成す概念です。この「想像」によってラジオを発信且つ受信する営為や仕組みが<想像ラジオ>と呼ばれるものです。これが小説内部の概念装置だとしたら、『想像ラジオ』における「想像」にはもう一段階高いレベルがあります。小説外部に働きかける、より浸透力の高い「想像」。つまり『想像ラジオ』を読むぼくら読者に対する働きかけを行う「想像」が書き込まれているわけです。

これは当たり前のことのように思われるでしょうし、実際そうかもしれません。読者が何か小説を読んでそこから「想像」を膨らませるのは当然だからです。でも本当の意味で「想像」するとはどういうことなのでしょうか。

いとうせいこうは、陣野俊史からのインタビューでこう答えています。

 

「今回いちばん心がけたのは、死者の声が読んでくれた人たちみんなにも「聴こえちゃう」ように書くということ。つまりこの小説を読んだら、以後、その声が聞こえないわけにはいかないっていうふうに書く。」

 

ぼくが思うに、これこそが「想像」なのではないでしょうか。小説の中で死者の声を忖度することの是非を巡り登場人物たちの間で議論が戦わされていますが、そのような議論の向こう側にある、とにかく「聴こえちゃう」という事実としての想像力についていとうせいこうは語っているのだと思います。

死者の声を代弁するのは罪かもしれない。死者の声を聴こうと耳をすませるのさえおこがましいかもしれない。それでも。聴こえてしまう。事実として、聴こえてしまう。いまここで夜の虫の囁きがはっきり聴こえるみたいに、聴こえてしまう。これは小説の中だけの問題ではありません。小説の読者の問題でもあります。小説の中と外の人たちに同じくらいの切実さで聴こえてしまう。

この小説に力があるとしたら、その最大のものは、小説内の出来事を小説外の出来事としてリアルに切実に経験できるようにする力だと思います。つまり想像力です。いとうせいこうは先の答えの後に続けてこう言っています。「それが虚構の力なんだということはすごく思っていたんですよ」。

虚構の力とは、読者にも「聴こえちゃう」力を授けること、つまり想像力を鍛える力です。

死者の声を忖度するのは罪か否かという形而上的な議論を超えて、死者の声は厳として在るという形而下の知覚をもたらすのが虚構の力と言ってもよいでしょう。声の有無を問うのではなく、声が在ると知覚する。その迫真性と切実さの源が想像力であり、読者に想像力をもたらすのが虚構=物語なのだと思います。

この記事の初めの方で、ぼくは小説にいたく感動して涙すら流したことを書きました。泣いたことそれ自体は小説の価値とは関係ありません。しかしぼくの泣いた理由は、死者の声を聴いてしまったからなのです。登場人物の誰かの身辺や運命に同情したのではなく、まさにぼく自身の耳が彼らの声を聴き、自分自身のこととして切実にここに書かれている出来事を生きたからです。

それを「共感」と呼ぶのはあまりに弱い。だから「共生」と呼びたい。そしてそれこそが「想像」の結果なのではないかと思うのです。「想像」は本来径庭を前提とし、且つ径庭を無化します。

「想像するということは、もう自動的にユーモアを含んでいる」といとうせいこうは述べています。ユーモアも対象との径庭を前提としているとすれば、それは即ち想像とも直結するので、彼は「想像力こそがユーモア」だとさえ言い切ってしまうわけですが、でもそれと同時に想像は径庭を無化するのです。

このような想像力の距離感は死者と生者の距離感にも似て、二義的です。いずれにせよ、生/死を生きる/死ぬ切実さを想像力はもたらし、その想像力は『想像ラジオ』という「虚構」を毛細血管のようにくるみ、またくるまれているのです。