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魔女の宅急便、未来の記憶

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ネットで調べたら自転車で30分と書いてあったので、その情報を頼りに漕ぎ続けたところ、結局丸1時間かかりました。往復で2時間。『魔女の宅急便』でトンボがプロペラ付き自転車をキキを乗せて猛スピードで漕いだ後みたいに、脚ががくがくになりました。ガニ股でしか歩けない、みたいな。

優れたアニメーターは人間の動きを単にトレースするばかりでなく、人間の動きの記憶をトレースします。観客は映像を見て、自分の身体の記憶を呼び覚ますわけです。こんなふうに動いたら、確かにこんなふうに体を曲げるなとか、ああしているときは、確かにああいうふうな姿勢になるなとか、そういう記憶を思い出してゆくのです。

これはアニメーションに描かれた人間が生身の人間の動きを模倣するということですが、現実にはしばしばこれと正反対のことが起こります。つまり、生身の人間がアニメーションを模倣するのです。今回のぼくの体験などはまさにそれで、1989年に制作されたアニメーション映画における動きを今日再現してしまいました。

優れたアニメーターは過去の記憶を蘇らせると共に、未来の記憶を現前させます。「そうだった」過去の身体感覚と「そうだろう」未来の身体感覚を、今ありありと体感させる映像表現は、したがって過去の記憶を反復すると同時に未来の記憶を前もって反復しているのです。未来のある一時点(例えば今日の夕刻)において、自分の身体感覚が既に経験されたものであると感じられるのは、このようなわけです。

たぶん、優れたアニメーションで表現されたこの身体感覚というのは一個の真実であって、だからこそ過去にも未来にも共通する性格を持っているのだと思います。言い換えれば、真実は過去や未来を超越している。

生活していると、時折りこの真実に思いがけず遭遇することがあります。そういうとき、自分の行為が真実の光に照らされて見出され、何かを会得したような気持ちになりますが、実は真実の存在を思い出したに過ぎないのだと思います。

真実とは本質であり、何か原初的なものです。アニメーションというのは基本的にデフォルメを身上としており、つまりそれは余計な挟雑物を削ぎ落とした本質、原型であり、真実に肉薄します。

優れたアニメーターの描く「動き」を思い出すことも、やはり真実に接近する道のりなのだと思います。

実は文学フリマについて書こうとしたのですが、前置きが長くなってしまいました。次回が本題です。