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ヒトが人になるとき

「種」としてのヒトは他者を犠牲にすることで自らの生存を図っており、これはヒトの本質と言えると思います。例えば我々は牛を殺してビーフステーキを食べる。鶏を潰して焼き鳥を食べる。他者の命を奪って自らの命にいかす。

でもこれはヒトだけではありません。牛や鶏は植物や穀類を食べますし、熊は鮭を食べます。どの種もそうやって生きている。

林業についてちょっと知っている人なら、木々を伐採する間引きが、その林や森全体に活力を与えることを知っているし、なにか植物を育てたことのある人なら、雑草をむしることの大切さを、あるいはその植物の花を間引くことの大切さを知っている。言い換えれば、全体(種)をいかすために、部分(個体)を犠牲にするわけです。

ところが人間というのは「種」であると共に「個」でもあるというふうに、二重性を生きています。そしてこの「種」と「個」というのは、今の植物を育てる例からも分かるように、しばしば矛盾した考え方である。「種」の保存と「個」の生存のそれぞれの利害が一致しないどころか、相反しうる。

人間はヒトとして(種として)生き延びると同時に人として(個として)生きるという解決しがたい難題を抱えているわけです。

しかし究極的には、人間は人として(個として)生きることを優先するべきだとぼくは思っています。ヒトとして(種として)生きるということは、最初に書いたように、他者を犠牲にすることです。種の保存という命題において、殺しというものが正当化される。

「全人類の平和のために」という名目で、あらゆることが正当化される。そしてそれは間違っていない。絶対に正しい。種は個を犠牲にして生き延びるというのがその本質だからです。

けれども、そういう他者を犠牲にした上での平和に個としての人は耐えられるのか。

ヒトが他の種と違うのは、ヒトが種であるのみならず、個でもあるからだと思います。人間は個でもあるという一点が、動植物とは大きく異なっている。もし「全人類のために」ヒトが個を犠牲にするならば、ヒトは人ではなく、動物と同じです。何も変わらない。

ヒトが人であるということを示す一番分かりやすい特徴は、名前があるということだと思います。人は誰にだって名前があります。この名前というものが、ヒトを人あらしめている。

人はときに動植物や事物にさえ固有名を与えることがあります。名前を授けることによって、それに愛着が湧くものです。

名前の授受というのは人にとって極めて大きな儀式です。名前が授けられることで、ヒトは人になると言っても過言ではない。だからこそ、命名行為とか名前とかにまつわる昔ばなしが多いのではないでしょうか。たとえば有名なゴーレム伝説では、ゴーレムは額の文字を消されることで死んでしまう。仮にこの額の文字を一種の名前だとすれば、名前を奪われることでゴーレムは命をも奪われると考えることができる。

 

余談ですが、この種と個の関係性は、科学知と人文知の関係性に似ている気がします。なぜか。前者は同一性を思考の前提としており、後者は類似性を思考の前提としているように思えるからです。たとえば数学では、代入とか置換といった発想が基本的なところにある。なにかをXと置いて考える。数学の専門書が一般人に難しいのは、それが記号と数式ばかりだからです。

一方で、たとえば文学では比喩というものが基本的なところにある。比喩は同一性というよりも類似性である。また、文学を成り立たせている言葉そのものは確かに記号であるけれども、これはXとかYとかいう記号とは違う、というより機能的に劣っている、不完全な記号である。つまり同一というよりは類似と言った方がいい。

「種」というものは、その発想の基本に同一性がある。その種における個は他の個と代替可能であるという。個体Aをいかすために個体Bを殺しても構わない。プラスマイナスゼロだから。A=Bだから。両者は等価であるから。

「個」というものは、その発想の基本に類似性がある。個体Aと個体Bは代替不可能。A≠Bだから。両者は似ているものの等価ではない。

 

ということを考えたので書きました。人間における「種」と「個」の二重性というテーマは、ここ一年くらいずっとぼくの頭の中にありました。それが自分の長年のテーマである「犠牲」とか「代償」というテーマと結びつきそうだったので、せっかくの機会だから書いてみた次第です。