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3Dライブ 可能性と問題

エッセイ

今日(8月16日)、豊洲PITで行われたamazarashi5周年ライブ3D版に行って来ました。

全国初の3Dライブということで、amazarashiと絡めながら感想を少し。

・3Dライブの可能性

『ワンルーム叙事詩』や『美しき思い出』の演出に3Dライブの可能性を感じました。

3D映像には大きく分けて「奥行き」と「飛び出し」の二つの効果がありますが、今回のライブではその中間的効果が目立っていたように思います。

つまり、空間を複数のレイヤー(層)に分割して、それぞれのレイヤーに異なる映像を投影する方法が採用されていました。

多くの曲で大体3つから4つのレイヤーに空間が分けられていたようです。例えば一番手前(観客側)には文字を投影するレイヤー、その向こうに雲や霧などの映像、更にその向こうにまた別の映像、といったふう。amazarashiのライブでは舞台前面に半透明のスクリーンを張るのが恒例で、これもレイヤーの役目を果たしています。

2012年1月28日に行われたライブ「千年幸福論」では、『美しき思い出』のときに半透明のスクリーンと舞台奥のスクリーンの両方に別々の映像が投影されました。この手法はその後のamazarashiライブのスタンダードになりましたが、今回の3Dライブはその手法をもっと推し進めたものと考えることもできます。

今回のライブでこのレイヤーを駆使した手法が最も効果的だと感じたのは、先にも書いたように『ワンルーム叙事詩』と『美しき思い出』です。

実は両方とも同じ演出が見られました。思い出が写った写真を燃やす(放棄する)のです。とりわけ『ワンルーム叙事詩』ではその思い出の写真がすぐ目の前で灰となって降って来るため、「過去の事は燃やしてしまおうぜ 灰になるまで 燃えろ 燃えろ 全部燃えろ」という歌詞が極めて切実に感じられ、感銘を受けました。『美しき思い出』でもこれと同じようなことが起きています。

この複数のレイヤーという手法は遠近法を併用すれば無数のレイヤーを張り巡らせているのと同じ効果を期待できます。また一般的な3D映像とは違い大がかりな映像を制作する必要がないため、汎用性も高いと思います。

コンピュータ上でレイヤーを重ねて映像を制作することは一般的に用いられる方法ですが、セルアニメーションというのが本来そういう手法を採用した映像作品であり(セルを重ねて撮影する)、セルアニメの発達した日本では特に受け入れられやすいように思います。

 

・問題

(1)歌と映像

amazarashiはYKBX氏の映像と共に世に認められ広まって来たのではないか、と思っています。2011年(2010年度)のメディア芸術祭で『夏を待っていました』MVがエンターテインメント作品部門で優秀賞を獲得したことにそれは象徴的に表れています。

また当時動画投稿サイトにアップロードされていた『クリスマス』MVのコメントには、「歌を聴け!」というようなものが見られました。YKBX氏の作る映像が余りに見事なので、それに目を奪われ、歌を聴くのを忘れてしまう人は実際に多かったのではないでしょうか。

当初よりamazarashiにおいては歌と映像どちらも重要な位置を占めていたわけです。それはライブでより顕著になりました。

歌と映像で絶妙なバランスを取り続けること、比重の配分に失敗しないこと。これはamazarashiに最初から課せられていた宿命のようなものだったのかもしれません。

3Dライブでは、残念ながら映像の比重が大きくなり過ぎていたきらいがあります。

確かに、『ワンルーム叙事詩』や『美しき思い出』などでは歌と映像の相乗効果が見られましたが、『夕日信仰ヒガシズム』など前半に演奏された曲では、3D映像に慣れていないこともあり、歌に聴き入るというよりは、どうしても映像に気を奪われていました。

ぼくらは秋田ひろむの声を聴きに来ているのだから、もっと歌に集中したいと、まさに歌っている最中に考えてしまうという葛藤に戸惑いながら、前半のライブを聞いて/見ていました。

趣が変わったのは新曲『名前』のときです。ここでは過剰な演出は一切なく――つまり3D映像どころか映像自体が一切使われず――ただ秋田ひろむの歌声とバックの演奏が会場に響き渡っていました。

amazarashiというのは秋田ひろむの声と歌詞に負うところが極めて大きいのだと、改めて感ぜざるを得ないほど圧倒的なその歌は、今日のライブのハイライトでした。

彼の歌をもっと真剣に、もっと切実に聴くためには、今日とは別のやり方があるのではないかと思った次第です。

ちなみに、3Dのときとそうでないときとで、いちいち専用グラスを上げ下げするのも気が散ってしまう(ライブに没入できない)要因の一つでした。

(2)身体への負担

ライブ中、ぼくの近くを二組のお客さんが出口へと向かってゆきました。その内の一組(の中の一人)は明らかに体調を崩しているようで、途中で倒れ込んでいたほどです。

この体調不良が3Dライブのせいかどうかは分かりません。そもそもライブというのは途中で体調が悪くなってしまう人が一定数いるものなのかもしれません。

しかし、今回は豊洲PIT内に特別に(普段のamazarashiライブにはない)救護室が設けられており、3Dライブの身体への負担が主催者側で危惧されていたのは確かです。よく「3D酔いする」と言いますが、3D映画などでも気分が悪くなる人がいるようです。今回はスタンディングのライブであり、映画よりも疲労が溜まりやすい状態で、しかも大音量で3D映像を観るという未曽有の経験をするわけですから、体調不良を訴える人が出てくるのは十分予想されていたはずです。だからこその救護室でしょう。

でもここで疑問を感じずにはいられません。たとえ少数であれ、そういう予想が立つのなら、そもそも3Dライブというのは開催すべきだったのか否か。

新しい技術や試みに挑戦したいという気持ちは分かります。たぶん主催者や技術者は観客の反応を知りたいはずです。それで、あえてここに否定的な意見を載せようと思いました。ぼくの意見を他のファンの方々に共感してもらいたいとは思いません。むしろ「いや違う」と思っていただきたい。でもだからこそ、ここにこうして3Dライブへの違和感を表明する意味があると思っています。

amazarashiとは無関係のことですが、そもそも3D映像というのは技術的に価値のあるものだとはぼくにはあまり思えません。

メディアは「身体の拡張」であると唱えたのはマクルーハンです。これは技術=テクノロジーは身体の拡張である、と言い換えてもよいと思います。例えば、車や飛行機というテクノロジーは人間の足を拡張したものです(移動するという機能の拡張)。

ただし、ぼくはこのマクルーハンの主張に更にこう付け足したいと思っていました。テクノロジーは身体の拡張と代補である、と。

テクノロジーは身体をまず代補し、それから拡張すべきではないでしょうか。先程の例で言えば、車や飛行機は足のない人にも利用できるテクノロジーです。それは足の代わりをし(代補し)、その上で足の機能を拡張しているのです。

現状では、3D映像を見るには右目と左目の視差を利用しなければならないので、正しく立体視するためには、両眼が正しく機能することが前提になっています。つまり、3D映像というテクノロジーの賜物は、人間の身体を代補し拡張するどころか、人間の身体に依拠しているのです。だいたい人間は自然界では3D映像を見ているわけですから、この技術は、平面映像を立体的に見せる、というかなり限定的なものでしかありません。

何度も言いますがamazarashiには全く関係ないことですが、3D映像という「技術」には、ぼくは前々から不審を抱いていました。しかし、本当だったらただ聴覚さえ働いていればいいはずのamazarahiのライブに、視覚の十全な機能も要求されてしまうことが、どうもすっきりしないのです。なぜならamazarashiは弱者と共にある歌だと思うからです。

世の中には目の不自由な人が何人もおり、そういう人たちは音楽への感受性が高いものです。そういう視力が弱い人たちの救いであるはずの音楽に彼/女らが裏切られてしまうは悲しいことです。

 

・まとめ

今回の3Dライブは、レイヤーを多用する画期的なものでした。そしてその手法は半透明のスクリーンを舞台前面に張るamazarashiの従来のライブスタイルの延長線上にあったと言うことができます。

しかし、3Dライブはときに歌への集中力を奪います。またそれは身体に負担のかかることが予想されます。更に言えば、3Dライブは聴覚のみならず視覚の十全な機能をも要求する、より健全な人間を前提とするものでした。

個人的なハイライトが映像演出の一切なかった『名前』であったこと、3D演出が大成功した(と個人的に感じた)のは『ワンルーム叙事詩』と『美しき思い出』だけだったことも勘案すると、やはりamazarahiのライブでは3D映像を用いるべきではないと思います。

もちろん、これはぼく個人の感想であり、先にも書いたように、誰か大勢の人たちとこの考えを分かち合いたいとは思っていません。でもたぶん個人が個人の意見を表明する自由はあるはずですし、また今回のライブの技術面を担当した人たちは少しでもお客の反応を知りたいでしょうから、こうしてブログに書くことにした次第です。

4000字弱ある長い記事でした。こういう内容をつづるブログではないのですが、今日は特別に。