世界はあなたのコレクション

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『百日紅』

原恵一監督の映画『百日紅』を観てきたので、それについて感想を少々。

たとえばクストリッツァ監督『アンダーグラウンド』のように、世界を丸ごと提示してしまう映画というものがあります。世界の一部を切り取っているのではなく、世界そのものであるような作品です。

そのような映画は、要約したりテーマを論じたりすることができません。この世界を要約すること、この世界のテーマ(最も大事なこと)を一つだけ取り出すことができないのと同じです。それは余りにも広く、余りにも深すぎ、また余りにも多様であるため、仮にテーマを論じようとすれば、「1」を拾って残り「99」を捨てることになります。

その作品を観て得られた感想を事細かく表現することならできるかもしれませんが、その作品について過不足なく語ることは不可能と言ってよいと思います。

ぼくたちがこの世界に日々暮らし、いつも何かしらを感じながら生活していること、そしてこの世界について何かしらの感慨を抱きながら生きていることが自然なことだとしても、この世界の理を知らない以上(仮に世界を統べる一つの理があるとして)、やはりこの世界について完全に的確なことは言い得ないのです。

 

百日紅』という映画は、世界という規模ではないにしろ、それでも人生というものを丸ごと提示してきている印象を受けました。

そこに描かれているのは江戸の四季であり、北斎という「天才」と呼ばれる絵師とその娘や居候の生活であり、家族との関わりであり、怪異であり、病であり、優しさであり、嫉妬であり、恋であり、才能であり、つまるところ人間の生そのものでした。

ぼくたちの生活には、ドラマチックなことなんてほとんどありません。朝起きて学校や会社に行って、だるいと言いながら勉強や仕事をして、食事をして、本や漫画を読んで、お風呂に入って寝て、翌朝また起きる。それだけの生活です。

この日々を生まれたての赤ん坊のように新しく目撃し続けながら生きてゆくことはできません。薄靄のかかったような日々を積み重ねて、どんどん靄の濃くなるのを鈍く感じながら、それでも少しでも見通しのよい地を探し、暗がりを切り裂く光を求めて生きています。ドラマチックなことが起こることは滅多にありません。

百日紅』にもそういう不自然なドラマはありません。北斎らにとっての「江戸の怪異」は、恐らくぼくらにとっての「どこぞで噂の美人」程度の意味合いしか持っていないと思います。怪異は彼らにとって非日常ではなく、日常であるはずです。

淡々とした日常を抑制された演出で見せ、決してこちらの感情を無理に煽ることはありません。

こんなふうに生きている。

こんなふうに生きてみようか。

彼らの歩いた道のその先を、ぼくらはたぶん彼らと同じ足取りで歩いています。いや同じ足取りで歩きたいと思わせます。噂話に興味をひかれ、好きな人の前では赤くなり、仕事で悩み、人と比べ、死について考える。

優しい、且つ残酷なことを言い当てている映画だとも思いますが、たとえば西陽の射す教室の隅にしばらく佇んでいると何かしら言葉で言い尽くせない思いが巡るように、的確に表現することのできない感情が静かに体内を巡ってくるような、そういう映画だと思います。

最近紹介した動画

最近Twitterで紹介した(けれどもほとんどクリックされていない)動画をまとめました。

まずはこちら。

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虚構と現実の境界がどーのこーの言うのが好きな人は見て損なしです。

 

次はこちら。「オオカミのうた」です。

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オオカミの母子の話。

 

そしてこちら。

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これはけっこうヤバイやつです。話的には、「父さん、蜘蛛を殺してよ」「息子よ、命を粗末にしてはいかんぞ」「父さん分かったよ!」っていう内容なんですが、そういう話がどうしてこうなるのか意味不明ですね。

 

最後はこれ。

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トラヴィスのミュージック・ビデオです。

幻想的で素晴らしいと思います。

 

どれも短いので、息抜きにでもぜひぜひご覧ください!

希望を模倣する

昨日(18日)久々に新宿御苑に行きました。

そこで何枚か写真を撮ったわけですが、最後はこれでした。

椿は冬の花、梅は春の花のつもりで撮影し、また文字を付しましたが、いま調べてみたところ、椿は春に咲くことが多いようですね(そういえば木+春ですね)。

まあしかし、これは冬の花であると思っていたので、とりあえずそういう前提でお読みください。

冬の花が花弁を落とし、春の花が咲き誇っている様子を一枚のフレームに収めれば、そこからは「春の到来」という情報をぼくたちは得ることになります。

ところがこの「情報」の読み取りは極めて恣意的なもので、自然それ自体は何ら情報を開示していません。ただ椿が散り、梅が咲いている。それだけ。だからぼくは「椿がぼたりと落ちている。梅が咲いている」とツイートしたのです。「椿はぼたりと落ち、梅はちろりと咲いている」というふうに、両者を対比させませんでした。単なる事実の羅列を企図しました。

自然とは書物である。それは開いて読むこともできるし、閉じたままにしておくこともできる。そういうことを言った詩人がおりますが、まさしく自然は書物であり、ぼくらは本を読むようにして自然を読むことができます。

ただし、ここで言う「読む」とは「情報を得る」「因果関係を捉える」といった程度の意味です。冬の花が散って春の花が咲いているのを見て、「春の到来」という情報を入手し、因果関係を引き出すわけです。

ぼくたちが行っているそういう意味づけ(つまり自然の読み取り)に潜む無意識をあからさまにしてみようと、ああいう写真を撮ってみたのです。

ところで、椿と梅を被写体にして写真を撮る、という行為それ自体が既に恣意的なものでした。自然界にただある数々の物質の中からその二つだけを選ぶという行為が極めて恣意的であることは論を俟ちません。

それにカメラを向けた時点で、ぼくはそこに何らかの意味づけを行っています。

美しい写真を目にして、人はよくこう言います。「このカメラマンの見ている風景を自分も見てみたい」と。

でも、たぶんその写真はカメラマンの見ている景色の反映ではなく、見ようとしている景色の反映であるはずです。事実の模倣ではなく、希望の模倣。

文章もそうですが、カメラというのは技巧を要します。その技巧がなくては、眼前の風景を写真に写し取ることはできません。人間の眼とカメラの眼は違うので、素人がシャッターを押しただけでは、彼の見ている風景を写真に焼き付けることはできないのです。様々な技術を駆使することで、自分の見ている風景に写真を「加工」してゆくのです。しかしその加工の途中で、恐らく風景は「見ている風景」から「見たい風景」へと変容するはずです。肉眼とカメラ・アイと技術とが混然となって一枚の写真を構成します。そう、それは構成されたものです。創作されたものと言ってもいい。

そしてその創作は、カメラを一定の対象に振り向けた時点で既に始まっています。

世界を自分に応じて秩序立て、自分の内面を投影する。その撮影行為の無意識を明るみにしたくて、ぼくはこの写真を撮ったのでした。

が、椿って春の花だったんですね。

砂漠の井戸

先日、今年初めて新宿御苑を訪れましたが、ブログを書くまでにやや時間が空いてしまいました。なぜなら、率直に言って、それほど豊かな滞在にすることができなかったからです。これなら何も書かない方がいいかな、と躊躇していました。

実りある時間を持てなかったのは、第一に冬の寒さのせいです。第二に気持ちの余裕がないせいです。

やはり、冬、外で自然を観照したり本を読んだり考え事をしたりするのは厳しいです。レストランで食事を取りつつ休憩すればよいのですが(元々そのつもりでした)、正直お金がかかってしまうのがいやだし、またレストランに一人で2時間以上いるのは抵抗があります。けれども、寒風に晒される休憩所に長時間いることが難しいのは明白です。

そこで、先日は御苑内の温室に久しぶりに入って暖を取ろうとしてみましたが、ここはあくまで植物を観賞するところなので、腰かけて読書に勤しめるような椅子はありません。確かに暖かいですが、ずっと突っ立っているわけにも歩き回るわけにもゆかず、早々と退室してしまいました。

それでも、新宿御苑に滞在する時間が本当に貴重なものだったら、ぼくは御苑内を散策し、レストランに居座ることを選択したでしょう。そうする気持ちになれないのは、余裕が失せているせいです。

ゆっくり構えて、じっと考える。自宅ではそれが難しいと感じていたので、場所を変えることでそういう時間を自分に与えようとしていたのですが、このところ、たとえ場所を変えても腰を落ち着けていることができなくなりつつあります。なんだか億劫で、気力が湧かない。自然を見て考えることが大切なのは分かっているのに、日々の瑣事の方に気を取られてしまう。

いっそのこと、春が到来するまで新宿御苑には行かないと決断するべきなのかもしれません。

先日の御苑、風が時折り池を渡るのを眺めながら、ここから何か大事なものを見つけようと躍起になっていました。タルコフスキーの映画の中に、風が草原の向こうからゆっくりと草の葉を靡かせながら、こちらに押し寄せてくるシーンがあります。風はゆっくりとやって来ます。透明な巨人が大地を踏みしめてくるように、おごそかに、確実に、それはぼくらの鼻先へにじり寄ってくるのです。あちらの池の端にさざ波が起こる。すると波は次の波へと伝播してゆき、ぶわりと広がって、やがて水面に縞模様が描かれる。傍に佇んでいる木々は葉叢を揺らす。土の上に落ちている枯葉がカラカラと、足元近くにまで転がってくる。もうすぐだな、と思った矢先に冷風がぼくの四肢を擦り抜けてゆく。髪の毛が乱れる。

池はキャンバスで、風は絵筆。そんなことをぼんやりと考え、陳腐だなと打ち消す。そうじゃない。平面的に捉えるのではなく、もっと立体的な現象のはずだ。この風を、どんなふうに感じ取り、どんなふうに表現すればいいんだろうか…。

何かを観察すれば、そこから何かを「読み解く」必要があると、ぼくは焦燥を感じていました。そして読み解いたなら、それをどこかに表現しなければならないんだと。余裕を失くしてしまっているのです。

ぼくが本当に考えたいのは、「砂漠の井戸」のテーマです。砂漠が美しいのは、井戸が隠れているから。ご存知『星の王子さま』に出てくるフレーズです。ぼくは井戸のことを考えたいのです。でも今のような心境では、それは難しいと言わざるを得ません。

どうすればよいのか分かりません。しかし、と言葉を継ぎたいのに、次の言葉が出て来てくれない。