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世界はあなたのコレクション

出掛けた場所で見たこと・読んだもの・考えたことを、いつか誰かと共有するために。

さんざめく葉叢、読むという経験

(前回のつづき)

落ち着いて本を読める場所を探して歩き回ったところ、広々とした休憩所が目の前に現れたので、そこの椅子に腰かけ、柴崎友香の『寝ても覚めても』という小説をバッグから取り出し、早速読み始めました。

しばらく読んだところで顔を上げ、風にさんざめく巨木の葉叢に注意を向けました。

一枚一枚の葉を彩る光と影が風の過ぎる度にちらちらと小躍りし、賑やかに笑いさざめく様子をじっと眺めながら、「ぼくは観察するためにここに来たのだ」という思いを新たにしました。

見るという体験や読むという体験を「経験」に昇華させたいと思っています。ぼくは生きている内に色々なことを体験したいのではなく、経験したいのです。「体験」と「経験」を区別しなければならない、ということは既に高校時代に現代文の教師から個人的に教わっていたのですが(ぼくの読書感想文をその先生は褒めてくれて、特別に添削してもらった)、その区別を自分の人生に持ち込もうと考えるようになったのは最近です。森有正のエッセイを読んだのが大きい。

ただし、森氏的な区別を引き継いでいるわけではではなくて、ぼく個人の感覚的な区別という色合いが濃いです。簡単に言えば、「経験」は「体験」よりも奥深く、本質的なものです。例えば木々を見るという行為それ自体は単なる「体験」に過ぎませんが、それら木々を観照して木々の本質的部分に迫り自らの認識を変革するところまで行けば、それは「経験」になります。

本を読むのでも、ただストーリーを追いかけ登場人物に感情移入するだけでは、あるいは単に字面を追うだけでは、「読むという経験」は為されていません。そうではなく、そのテキストを自らの肉体に刻み込むようにして読み、やはり何らかの変革を生じさせてはじめて「経験」と呼べる読書ができたことになります。

しかしながら、そういった「経験」をするのは普段の生活の中で困難です。だからこそゆったりと時間の流れる場所で落ち着いて物事を観察し、「経験」を深めたいと思ったのです。

ところで「小説を書くには経験が必要だ」と巷でよく言われますが、この「経験」は多くの場合「体験」のことを言っているように感じます。そしてもしそうだとすれば、この巷の贅言を気に留める必要は全くありません。どんなに多くの体験をしてきたところで、その人はよい小説を書けるようにはならないはずだからです。ぼくの考えでは、100の体験をしただけの人は、1の体験を1の経験にまで深めた人に到底及びません。結局のところ前者は100の国を見ても1000の料理を食べても、一冊の本を「経験」した人に如かないのです。

ぼくは巨木を眺め、眺めるという経験をしたいと願いました。見方を鍛えること、対象の奥深くまで見通すこと――とにかく「よく見る」ことを心掛けました。

そのときふと、2-3メートル先の板張りの床を這っている蔦に気付きました。

(明日につづく)