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大温室、小説の言葉

(つづき)

8月18日から約一ヶ月間、新宿御苑内にある「大温室」が閉鎖されるとのことなので、中を覗いてきました。

結論から言えば、想像していたより楽しめました。

第一に、展示されている(という表現に我ながら違和感があるものの)植物の巨大さに圧倒されたからです。

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下手な写真でどれほど伝わるものか分かりませんが、このバナナの木(たぶん)を見たとき、まるで異世界の植物を見たかのようなショックを受けました。葉の大きさに驚いたのはもちろん、このへし折れた幹の持つほとんどリアリティを感じられないくらいの蠱惑的な存在感に感電しました。

巨大であるという以外にも、変てこな形状をした植物もありました。その代表格が次の例。

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ただ実を言えば、その形状以上に和名に惹かれました。

これが大温室を楽しめた第二の理由です。

他にも「キソウテンガイ」とか「ソーセージノ木」とか色々ありましたが、極めつけは「ミッキーマウスの木」でしょう。木そのものには特筆すべき点がほとんどないにもかかわらず、名前が印象に残ります。

いわば「体」よりも「名」の方が主張が強くて、人間社会にも通底するなあなどと真っ当な連想をしてみたり。

小説においても「名」が「体」よりも強いと思われる作品はあると思っていて、それは例えばそこで用いられる「言葉」が貧弱である場合がそうだろうと。と言っても、多義的な言葉を要求しているのでは必ずしもなく、そうではなくて、その「言葉」がその通俗的な意味を凌駕して、いわば「小説の言葉」になりえていることをぼくは望んでいるのです。「小説の言葉」とは、小説の中で新たに定義し直される言葉ということです。そのとき「言葉」は貧弱どころかとても豊饒なものになっているはずです。

言葉が小説の中で再-定義されるとき、読者の認識が刷新されるはずです。それはたぶん言葉(あるいは概念)の「発見」と言っても差し支えなく、その経験こそ小説を読む愉悦の一つだろうな、という気がしています。この言葉にはこんな意味があったのか! 

この文脈で言うならば、ぼくは新しい言葉を造ることにそれほど魅力を感じません。新しい対象に新しい言葉を贈与するという発想はよく理解できますし、ときに共感さえ抱けますが、しかし対象と言葉とが直感的に一致することはまずないので、こうした試みはえてして独りよがりなものに堕すからです。

対象に見合った言葉を無から創造するのを「発見」と呼ぶのではなく、既にここにある言葉を新たに(再び)見出すことこそ「発見」と呼びたいとぼくは思っています(これでちょっと昨日のつづきっぽくなったかな)。

(つづく)