世界はあなたのコレクション

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希望を模倣する

昨日(18日)久々に新宿御苑に行きました。

そこで何枚か写真を撮ったわけですが、最後はこれでした。

椿は冬の花、梅は春の花のつもりで撮影し、また文字を付しましたが、いま調べてみたところ、椿は春に咲くことが多いようですね(そういえば木+春ですね)。

まあしかし、これは冬の花であると思っていたので、とりあえずそういう前提でお読みください。

冬の花が花弁を落とし、春の花が咲き誇っている様子を一枚のフレームに収めれば、そこからは「春の到来」という情報をぼくたちは得ることになります。

ところがこの「情報」の読み取りは極めて恣意的なもので、自然それ自体は何ら情報を開示していません。ただ椿が散り、梅が咲いている。それだけ。だからぼくは「椿がぼたりと落ちている。梅が咲いている」とツイートしたのです。「椿はぼたりと落ち、梅はちろりと咲いている」というふうに、両者を対比させませんでした。単なる事実の羅列を企図しました。

自然とは書物である。それは開いて読むこともできるし、閉じたままにしておくこともできる。そういうことを言った詩人がおりますが、まさしく自然は書物であり、ぼくらは本を読むようにして自然を読むことができます。

ただし、ここで言う「読む」とは「情報を得る」「因果関係を捉える」といった程度の意味です。冬の花が散って春の花が咲いているのを見て、「春の到来」という情報を入手し、因果関係を引き出すわけです。

ぼくたちが行っているそういう意味づけ(つまり自然の読み取り)に潜む無意識をあからさまにしてみようと、ああいう写真を撮ってみたのです。

ところで、椿と梅を被写体にして写真を撮る、という行為それ自体が既に恣意的なものでした。自然界にただある数々の物質の中からその二つだけを選ぶという行為が極めて恣意的であることは論を俟ちません。

それにカメラを向けた時点で、ぼくはそこに何らかの意味づけを行っています。

美しい写真を目にして、人はよくこう言います。「このカメラマンの見ている風景を自分も見てみたい」と。

でも、たぶんその写真はカメラマンの見ている景色の反映ではなく、見ようとしている景色の反映であるはずです。事実の模倣ではなく、希望の模倣。

文章もそうですが、カメラというのは技巧を要します。その技巧がなくては、眼前の風景を写真に写し取ることはできません。人間の眼とカメラの眼は違うので、素人がシャッターを押しただけでは、彼の見ている風景を写真に焼き付けることはできないのです。様々な技術を駆使することで、自分の見ている風景に写真を「加工」してゆくのです。しかしその加工の途中で、恐らく風景は「見ている風景」から「見たい風景」へと変容するはずです。肉眼とカメラ・アイと技術とが混然となって一枚の写真を構成します。そう、それは構成されたものです。創作されたものと言ってもいい。

そしてその創作は、カメラを一定の対象に振り向けた時点で既に始まっています。

世界を自分に応じて秩序立て、自分の内面を投影する。その撮影行為の無意識を明るみにしたくて、ぼくはこの写真を撮ったのでした。

が、椿って春の花だったんですね。