世界はあなたのコレクション

出掛けた場所で見たこと・読んだもの・考えたことを、いつか誰かと共有するために。

高い天井、正しさ

サイクリングは当面見合わせる、と前回書きました。しかし近所にサイクリングコースのあることが分かったので、今日そこまで行って様子を見てきました。

結論から言うと、いい条件じゃない。コースが短すぎる。ただし自分の意思でコースを勝手に延長することはできます。道は続いているのだし、幸い車が通るところでもないので。しかし仮に延長したとしても、いい条件とは言えない。歩く人の往来が少しあるし、何より道が平坦過ぎるのです。もっとアップダウンが欲しい。もっと太腿に負荷をかけたい。

「いい景色ね」「そうだなぁ」と言葉を交わしながらおもむろにペダルを漕ぐ老夫婦にとってはここはなかなかのコースと言えるかもしれません。でも大した運動にはなりません。

やはりサイクリングは少なくとも当面の間は難しいかもしれません。

ところで、自分の筋肉を酷使し、そしてそれを終えてその疲労が安らいでゆくのを待っているのがぼくは好きです。と言うと何かマッチョな男を想像されるかもしれませんが、ぼくは決してマッチョではないし、それどころか痩せています。でもなけなしの筋肉を用いて坂道を自転車で駆け上がったり、走り疲れてグラウンドの隅にへたり込んで肩で大きく息をしたりするのが好きです。そしてぼくはそのような行為が自分にとてもマッチしている、と思っています。

もう10年ほど前になりますが、さる場所でぼくは空手をほんの少しの間だけ習っていました。盛夏。汗だくで正拳突きを何度も繰り返し、一定の回数を終えると左右逆の拳を再び前に突き出しました。一通り済んだ後、ぼくらは道場の畳に仰向けになりました。高い天井が見え、蝉の声が山頂の星のように降ってきました。

とても馴染んでいる。ぼくの感覚器官はぼくにそう告げていました。今こうして疲労した身体を仰向けにして高い天井を眺めている行為は、ぼくにとってものすごく適切だ。まるで海の水が塩辛いのが当然で且つ正しいように、ぼくがここにこうしているのは当然で且つ正しい。

あの高い天井の心地よさをぼくは取り戻したいと思っています。あれはぼくにとって当然であり、必然ですから。ジャムの蓋をジャムの瓶に戻すように、ぼくは自分の身体をあるべき身体に戻さなければならない気がしています。なぜならそれが当然であり、必然であり、正しいことだからです。

水中では息を吐き過ぎない方がいい

ついに今日、泳ぎに行ってきました。近くのスポーツセンターへ。前々からこのことは計画していたので、「ついに」今日それが果たされたのです。

1時間分のチケットを買い、水着に着替えて泳ぎ始めました。

正直言ってしんどかったです。25メートルを一往復しただけで、はあはあと呼吸が乱れました。しかもかなりゆっくり泳いだのに。たったの50メートルでこれだけ疲弊してしまうとは、予想していたとはいえ、ちょっとがっかりです。行きは平泳ぎ、帰りはクロール、いずれにしろフォームを意識しながら、監視員に泳ぎをチェックされているようなつもりになって慎重に手足を動かしました(身体を動かしたと言うのは違和感があって、というのもぼくの意識の先の中心にあったのは手足の動きでしたから)。

それから何度も25メートルプールを往復して、その間に二度ほど水からあがって休憩しました。そうしなければならないほど肉体が疲れ切っているのを感じました。この体力ではクロールは保たないので、ほとんど平泳ぎに徹していました。

泳ぎながら不思議なことを考えました。息を吸えるときに息は吸わなければいけない。水中では息を吐き過ぎない方がいい。

どちらも至極当たり前のことなのですが、それが何かのアレゴリーのような形を取っていることが我ながら少し可笑しくて、またこの頃は何でも敷衍してしまう癖が付いてしまっているのかな、と自分を警戒したくもなりました。

結局プールには1時間もいませんでした。初日から無理しても仕様がないし、体力もあまり残されていなかったので、いい加減なところで切り上げて外に出ました。

着替えて蜜柑ジュースを飲み、すぐにスポーツセンターを後にしました。ぼくはこれからこのスポーツセンターにときどき通うつもりです。しかしこんなにへとへとに疲れてしまうとは意外でした。もっと心地よい疲労感が得られると予想していたのに。正直言って通うのは嫌だな、と思いました。

そこで、スイミング以外のスポーツにも取り組もうと考え始めました。他のスポーツをすることで、スイミングの役割を減らそうという魂胆です。ランニングが真っ先に思い浮かびました。元々ぼくは陸上部なので、走るのが好きです。近所にちょうどよい大きさの公園もあるし、そこでときどきランニングすることにしようかな――そんな計画を立てています。更に本音を言えば、サイクリングもしたいのですが、しかし家の近くには適切な環境がなく、わざわざ遠出するのも億劫なので、これは少なくとも当面は見送ることになりそうです。

ランニングシューズやスポーツウェアを購入すれば、「もったいないから」という理由で後に引けなくなり走らざるを得なくなりそうですので、折を見てランニングに必要な一式を買い揃えようと思っています(とはいえ靴とジャージ程度ですね)。

そんなわけで、少年時代のように、これからのぼくはスポーツに熱を入れようと思っています。

想像せよ、と彼は言う。

土曜日の新宿御苑

曇ったり晴れ間が出たりと忙しい空の下、いつもの休憩所に腰を落ちつけて本を読み始めました。間もなくすると、すぐ近くの席に初老の夫婦が並んで座るのが視界に入りました。見覚えがある、とすぐに閃きました。たしか2-3週間前にも同じ場所でこの夫婦を目にしたのです。この人たちはこうして新宿御苑に通っているんだろうか――ちょっと嬉しい気もしましたし、また恥ずかしいような気もしましたが、やがて二人は席を立ち、どこかへ消えてゆきました。

涼やかな風が吹き通ります。

ぼくは再び頁に目を落としました。そのうち段々と読書に没入してゆきます。ふと気が付くと1時間を経過。それを腕時計で確認して、もう一度のめり込んでゆきます。時折り嗚咽を上げそうになりながら、鼻をぐじゅぐじゅ言わせながら、最後には涙が零れるので眼鏡を外し、裸眼のまま読みました。

いとうせいこう『想像ラジオ』。すばらしい小説だと思いました。

死者と生者との共生的関係を前提としているこの小説について、あるいはこの小説に触発されたことについて書きたいことはたくさんありますが、とりあえず一つに絞ってみます。

「想像せよ」という台詞が繰り返し出てきますが、「想像」は言うまでもなく『想像ラジオ』の基幹を成す概念です。この「想像」によってラジオを発信且つ受信する営為や仕組みが<想像ラジオ>と呼ばれるものです。これが小説内部の概念装置だとしたら、『想像ラジオ』における「想像」にはもう一段階高いレベルがあります。小説外部に働きかける、より浸透力の高い「想像」。つまり『想像ラジオ』を読むぼくら読者に対する働きかけを行う「想像」が書き込まれているわけです。

これは当たり前のことのように思われるでしょうし、実際そうかもしれません。読者が何か小説を読んでそこから「想像」を膨らませるのは当然だからです。でも本当の意味で「想像」するとはどういうことなのでしょうか。

いとうせいこうは、陣野俊史からのインタビューでこう答えています。

 

「今回いちばん心がけたのは、死者の声が読んでくれた人たちみんなにも「聴こえちゃう」ように書くということ。つまりこの小説を読んだら、以後、その声が聞こえないわけにはいかないっていうふうに書く。」

 

ぼくが思うに、これこそが「想像」なのではないでしょうか。小説の中で死者の声を忖度することの是非を巡り登場人物たちの間で議論が戦わされていますが、そのような議論の向こう側にある、とにかく「聴こえちゃう」という事実としての想像力についていとうせいこうは語っているのだと思います。

死者の声を代弁するのは罪かもしれない。死者の声を聴こうと耳をすませるのさえおこがましいかもしれない。それでも。聴こえてしまう。事実として、聴こえてしまう。いまここで夜の虫の囁きがはっきり聴こえるみたいに、聴こえてしまう。これは小説の中だけの問題ではありません。小説の読者の問題でもあります。小説の中と外の人たちに同じくらいの切実さで聴こえてしまう。

この小説に力があるとしたら、その最大のものは、小説内の出来事を小説外の出来事としてリアルに切実に経験できるようにする力だと思います。つまり想像力です。いとうせいこうは先の答えの後に続けてこう言っています。「それが虚構の力なんだということはすごく思っていたんですよ」。

虚構の力とは、読者にも「聴こえちゃう」力を授けること、つまり想像力を鍛える力です。

死者の声を忖度するのは罪か否かという形而上的な議論を超えて、死者の声は厳として在るという形而下の知覚をもたらすのが虚構の力と言ってもよいでしょう。声の有無を問うのではなく、声が在ると知覚する。その迫真性と切実さの源が想像力であり、読者に想像力をもたらすのが虚構=物語なのだと思います。

この記事の初めの方で、ぼくは小説にいたく感動して涙すら流したことを書きました。泣いたことそれ自体は小説の価値とは関係ありません。しかしぼくの泣いた理由は、死者の声を聴いてしまったからなのです。登場人物の誰かの身辺や運命に同情したのではなく、まさにぼく自身の耳が彼らの声を聴き、自分自身のこととして切実にここに書かれている出来事を生きたからです。

それを「共感」と呼ぶのはあまりに弱い。だから「共生」と呼びたい。そしてそれこそが「想像」の結果なのではないかと思うのです。「想像」は本来径庭を前提とし、且つ径庭を無化します。

「想像するということは、もう自動的にユーモアを含んでいる」といとうせいこうは述べています。ユーモアも対象との径庭を前提としているとすれば、それは即ち想像とも直結するので、彼は「想像力こそがユーモア」だとさえ言い切ってしまうわけですが、でもそれと同時に想像は径庭を無化するのです。

このような想像力の距離感は死者と生者の距離感にも似て、二義的です。いずれにせよ、生/死を生きる/死ぬ切実さを想像力はもたらし、その想像力は『想像ラジオ』という「虚構」を毛細血管のようにくるみ、またくるまれているのです。

空白のある生

天気予報は雨が降るぞと脅迫していて、実際に空はどんより曇っていて、時折りさらさらと蜘蛛の糸みたいな雨が中空を流れてゆくようでしたから、ぼくは新宿御苑に行きませんでした。

代わりに自宅で『マダム・キュリーと朝食を』を読んで過ごしました。

新宿御苑にはたぶん土曜日に行くことになるはずですが、でも毎週通うという自分の規律を破ることは、本当はそんなに悪いことではないかもしれません。なるほど一度規則を破ればなし崩し的に破り続け、通うのがひどく億劫になってしまうかもしれないとはいえ、それでもやはり休息を入れるのは必要でさえあるかもしれないという思いが脳裏をかすめるのです。

こういうことを、ぼくはいつも「空白を作る」と言っています。「余白を作る」でもいいかもしれません。

家の中に家具を配置するとき、タンスはそこ、テレビはあそこ、ここに机を置いて、カーペットはあっち、本棚はこちらでベッドもこっち、というふうに采配していったら、その家は生活するのに極めて機能的で効果的になり、もしかしたら美的にだってなるかもしれません。全ての物に役割を与えれば人は快適に暮らせるようになるでしょう。

けれどもぼくは、無用の物を置きたい。あるいは無用の空間を作りたい。それがぼくの言う「空白を作る」あるいは「余白を作る」ということです。いま思い付いたことですが、「遊ぶ」でもいいかもしれません。

機能とか役割とか意味とかいうものに縛られた生活の縄をほどいてやりたい、とよく思います。

こんなふうにして、ぼくの人生に空白が滲むように広がってゆきます、ところどころ、幾層にもわたり。