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覚えてないけど印象深い短編小説 5+5

デング熱騒動の影響で新宿御苑が閉鎖されてしまいましたが、このブログは閉鎖しません。とはいえ書くべきテーマが一時的に失われてしまったのは確かですから、今日はちょっと趣向を変えて、文学作品の紹介でもしようかなと。

笹尾瓶太(まちゃひこ)さんがブログの中でお薦めの海外作家を紹介していたので、それに便乗してしまいます。


好きな作家15人をオススメ小説と一緒にランキング形式で紹介する(海外文学編) - カプリスのかたちをしたアラベスク

 

ただ、自分の中のベスト10なりベスト15なりを選ぼうとすると、どうしてもベタなラインナップになってしまいそうなので(そしてベスト100を選ぼうとすればひどく偏る)、ここでもちょっと趣向を変えて、「覚えてないけど印象深い短編小説」を海外から5作品、日本から5作品、合計10作品を選んでみることにしました。

「覚えてないけど印象深い」とはどういうことかといえば、要するに話の筋はほとんど覚えてないけれども、「なんかすげぇもの読んだなぁ」とか「作中のたった一つのイメージだけいつも脳内再生されてる」とか、そういう印象深さのことです。

 

~海外編~

ドノソ『閉じられたドア』

筋は全然覚えてないのです。が、ものすごくおもしろくて大興奮したのはよく覚えています。ドノソらしからぬというか、割と正当派の本格小説だったはずで、人生の意味とか世界の真実とかを巡る話だったはずです。たぶんですが。

 

残雪『かつて描かれたことのない境地』

やはり筋は全然覚えてません。でも読んでいるときに心地よさを感じていた気がします。ちょっと切なくなるような、あるいは何か神秘に触れてしまったような、敬虔な気持ちにさせられたような気もしてきました。

 

ロジェ・グルニエ『フラゴナールの婚約者』

途中までは読書にそれほど身が入らなかったのですが、後半のどこかで一気に引き込まれ、その後は怒涛の如く物語が展開してくるように感じられました。まさに最後の一文まで目が離せず、読み終えた瞬間は呆然としてしまうほど(だった気がします)。

 

ホフマン『イグナーツ・デンナー』

凄まじいほど恐ろしく且つ面白い小説。ホフマンの小説は大抵そうかもしれませんが、この『イグナーツ・デンナー』はとびきりです。まるで悪魔に魅入られたかのように本が手放せなくなってしまって、ほとんど金縛りにかかったみたいに身動きせず一心不乱に読み進めました。頭に血が昇って痙攣してしまいそうになりました。たぶん。

 

ヤセンスキー『主犯』

現在日本ではあまり知られていないポーランドの作家ですが、この小説はおもしろいです。といっても筋はほぼ完全に失念しています。それでも最高の読書経験をしたという実感を当時得ました。もう一度読みたい!

 

~日本編~

宇野浩二『思い川』

宇野浩二はけっこう好きな作家なのですが、この『思い川』の筋は忘れています。たぶん比較的後期の作品のはずで、というのも初期の喋るような文体に比べて、息詰まるように神経質な文体になっているからです。ちなみに栃木を走る両毛線に「思い川」という駅がありますが、それに関係しているかどうかは知りません。

 

坂口安吾『風博士』

すこぶる面白いユーモア小説なのですが、まるで筋が思い出せません。ただし、冒頭の「あなたは風博士を御存知だろうか。御存知ない。それは誠に残念である」というような文から始まる数行は大体覚えていて、それがとにかく愉快なので、未だに深く印象に残っているのです。

 

内田百閒『特別阿房列車

とても有名なエッセイ。よく考えたら小説ではなくエッセイでした。でもこのリストに入れてしまいます。何の用事もないのに列車に乗って遠方まで旅に出る話で、たぶんご存知の方も多いでしょう。ここで百閒がどんなことを書いていたか、具体的な記述はまるで思い出せませんが、しかしその企てそのものが痛快ですし、また共感もするので(ぼくも似たようなことをします)、とても好きなのです。

 

本庄陸男『白い壁』

たしか学校の話で、しかも知能に遅れのある生徒たちが出てくる話です。それしか記憶にありませんが、でも喜怒哀楽に収まらない複雑な読後感を得られたことは何となく覚えていて、それで今回挙げてみました。

 

永井龍男『胡桃割り』

非常に巧みに書かれている小説で、短編小説のお手本のよう。「胡桃割り」という一つの道具に物語内の出来事が集約されてゆく様子は見事です。と言っても、例によって例のごとく、筋はほぼ完全に失念しているので、あくまでぼくの現時点での印象に基づいた感想です。

 

我ながら意味不明な(というより意義不明な)読書案内でしたが、ここで紹介した作品の一つでも興味を持っていただけたなら、まさに望外の喜びです。

高い天井、正しさ

サイクリングは当面見合わせる、と前回書きました。しかし近所にサイクリングコースのあることが分かったので、今日そこまで行って様子を見てきました。

結論から言うと、いい条件じゃない。コースが短すぎる。ただし自分の意思でコースを勝手に延長することはできます。道は続いているのだし、幸い車が通るところでもないので。しかし仮に延長したとしても、いい条件とは言えない。歩く人の往来が少しあるし、何より道が平坦過ぎるのです。もっとアップダウンが欲しい。もっと太腿に負荷をかけたい。

「いい景色ね」「そうだなぁ」と言葉を交わしながらおもむろにペダルを漕ぐ老夫婦にとってはここはなかなかのコースと言えるかもしれません。でも大した運動にはなりません。

やはりサイクリングは少なくとも当面の間は難しいかもしれません。

ところで、自分の筋肉を酷使し、そしてそれを終えてその疲労が安らいでゆくのを待っているのがぼくは好きです。と言うと何かマッチョな男を想像されるかもしれませんが、ぼくは決してマッチョではないし、それどころか痩せています。でもなけなしの筋肉を用いて坂道を自転車で駆け上がったり、走り疲れてグラウンドの隅にへたり込んで肩で大きく息をしたりするのが好きです。そしてぼくはそのような行為が自分にとてもマッチしている、と思っています。

もう10年ほど前になりますが、さる場所でぼくは空手をほんの少しの間だけ習っていました。盛夏。汗だくで正拳突きを何度も繰り返し、一定の回数を終えると左右逆の拳を再び前に突き出しました。一通り済んだ後、ぼくらは道場の畳に仰向けになりました。高い天井が見え、蝉の声が山頂の星のように降ってきました。

とても馴染んでいる。ぼくの感覚器官はぼくにそう告げていました。今こうして疲労した身体を仰向けにして高い天井を眺めている行為は、ぼくにとってものすごく適切だ。まるで海の水が塩辛いのが当然で且つ正しいように、ぼくがここにこうしているのは当然で且つ正しい。

あの高い天井の心地よさをぼくは取り戻したいと思っています。あれはぼくにとって当然であり、必然ですから。ジャムの蓋をジャムの瓶に戻すように、ぼくは自分の身体をあるべき身体に戻さなければならない気がしています。なぜならそれが当然であり、必然であり、正しいことだからです。

水中では息を吐き過ぎない方がいい

ついに今日、泳ぎに行ってきました。近くのスポーツセンターへ。前々からこのことは計画していたので、「ついに」今日それが果たされたのです。

1時間分のチケットを買い、水着に着替えて泳ぎ始めました。

正直言ってしんどかったです。25メートルを一往復しただけで、はあはあと呼吸が乱れました。しかもかなりゆっくり泳いだのに。たったの50メートルでこれだけ疲弊してしまうとは、予想していたとはいえ、ちょっとがっかりです。行きは平泳ぎ、帰りはクロール、いずれにしろフォームを意識しながら、監視員に泳ぎをチェックされているようなつもりになって慎重に手足を動かしました(身体を動かしたと言うのは違和感があって、というのもぼくの意識の先の中心にあったのは手足の動きでしたから)。

それから何度も25メートルプールを往復して、その間に二度ほど水からあがって休憩しました。そうしなければならないほど肉体が疲れ切っているのを感じました。この体力ではクロールは保たないので、ほとんど平泳ぎに徹していました。

泳ぎながら不思議なことを考えました。息を吸えるときに息は吸わなければいけない。水中では息を吐き過ぎない方がいい。

どちらも至極当たり前のことなのですが、それが何かのアレゴリーのような形を取っていることが我ながら少し可笑しくて、またこの頃は何でも敷衍してしまう癖が付いてしまっているのかな、と自分を警戒したくもなりました。

結局プールには1時間もいませんでした。初日から無理しても仕様がないし、体力もあまり残されていなかったので、いい加減なところで切り上げて外に出ました。

着替えて蜜柑ジュースを飲み、すぐにスポーツセンターを後にしました。ぼくはこれからこのスポーツセンターにときどき通うつもりです。しかしこんなにへとへとに疲れてしまうとは意外でした。もっと心地よい疲労感が得られると予想していたのに。正直言って通うのは嫌だな、と思いました。

そこで、スイミング以外のスポーツにも取り組もうと考え始めました。他のスポーツをすることで、スイミングの役割を減らそうという魂胆です。ランニングが真っ先に思い浮かびました。元々ぼくは陸上部なので、走るのが好きです。近所にちょうどよい大きさの公園もあるし、そこでときどきランニングすることにしようかな――そんな計画を立てています。更に本音を言えば、サイクリングもしたいのですが、しかし家の近くには適切な環境がなく、わざわざ遠出するのも億劫なので、これは少なくとも当面は見送ることになりそうです。

ランニングシューズやスポーツウェアを購入すれば、「もったいないから」という理由で後に引けなくなり走らざるを得なくなりそうですので、折を見てランニングに必要な一式を買い揃えようと思っています(とはいえ靴とジャージ程度ですね)。

そんなわけで、少年時代のように、これからのぼくはスポーツに熱を入れようと思っています。

想像せよ、と彼は言う。

土曜日の新宿御苑

曇ったり晴れ間が出たりと忙しい空の下、いつもの休憩所に腰を落ちつけて本を読み始めました。間もなくすると、すぐ近くの席に初老の夫婦が並んで座るのが視界に入りました。見覚えがある、とすぐに閃きました。たしか2-3週間前にも同じ場所でこの夫婦を目にしたのです。この人たちはこうして新宿御苑に通っているんだろうか――ちょっと嬉しい気もしましたし、また恥ずかしいような気もしましたが、やがて二人は席を立ち、どこかへ消えてゆきました。

涼やかな風が吹き通ります。

ぼくは再び頁に目を落としました。そのうち段々と読書に没入してゆきます。ふと気が付くと1時間を経過。それを腕時計で確認して、もう一度のめり込んでゆきます。時折り嗚咽を上げそうになりながら、鼻をぐじゅぐじゅ言わせながら、最後には涙が零れるので眼鏡を外し、裸眼のまま読みました。

いとうせいこう『想像ラジオ』。すばらしい小説だと思いました。

死者と生者との共生的関係を前提としているこの小説について、あるいはこの小説に触発されたことについて書きたいことはたくさんありますが、とりあえず一つに絞ってみます。

「想像せよ」という台詞が繰り返し出てきますが、「想像」は言うまでもなく『想像ラジオ』の基幹を成す概念です。この「想像」によってラジオを発信且つ受信する営為や仕組みが<想像ラジオ>と呼ばれるものです。これが小説内部の概念装置だとしたら、『想像ラジオ』における「想像」にはもう一段階高いレベルがあります。小説外部に働きかける、より浸透力の高い「想像」。つまり『想像ラジオ』を読むぼくら読者に対する働きかけを行う「想像」が書き込まれているわけです。

これは当たり前のことのように思われるでしょうし、実際そうかもしれません。読者が何か小説を読んでそこから「想像」を膨らませるのは当然だからです。でも本当の意味で「想像」するとはどういうことなのでしょうか。

いとうせいこうは、陣野俊史からのインタビューでこう答えています。

 

「今回いちばん心がけたのは、死者の声が読んでくれた人たちみんなにも「聴こえちゃう」ように書くということ。つまりこの小説を読んだら、以後、その声が聞こえないわけにはいかないっていうふうに書く。」

 

ぼくが思うに、これこそが「想像」なのではないでしょうか。小説の中で死者の声を忖度することの是非を巡り登場人物たちの間で議論が戦わされていますが、そのような議論の向こう側にある、とにかく「聴こえちゃう」という事実としての想像力についていとうせいこうは語っているのだと思います。

死者の声を代弁するのは罪かもしれない。死者の声を聴こうと耳をすませるのさえおこがましいかもしれない。それでも。聴こえてしまう。事実として、聴こえてしまう。いまここで夜の虫の囁きがはっきり聴こえるみたいに、聴こえてしまう。これは小説の中だけの問題ではありません。小説の読者の問題でもあります。小説の中と外の人たちに同じくらいの切実さで聴こえてしまう。

この小説に力があるとしたら、その最大のものは、小説内の出来事を小説外の出来事としてリアルに切実に経験できるようにする力だと思います。つまり想像力です。いとうせいこうは先の答えの後に続けてこう言っています。「それが虚構の力なんだということはすごく思っていたんですよ」。

虚構の力とは、読者にも「聴こえちゃう」力を授けること、つまり想像力を鍛える力です。

死者の声を忖度するのは罪か否かという形而上的な議論を超えて、死者の声は厳として在るという形而下の知覚をもたらすのが虚構の力と言ってもよいでしょう。声の有無を問うのではなく、声が在ると知覚する。その迫真性と切実さの源が想像力であり、読者に想像力をもたらすのが虚構=物語なのだと思います。

この記事の初めの方で、ぼくは小説にいたく感動して涙すら流したことを書きました。泣いたことそれ自体は小説の価値とは関係ありません。しかしぼくの泣いた理由は、死者の声を聴いてしまったからなのです。登場人物の誰かの身辺や運命に同情したのではなく、まさにぼく自身の耳が彼らの声を聴き、自分自身のこととして切実にここに書かれている出来事を生きたからです。

それを「共感」と呼ぶのはあまりに弱い。だから「共生」と呼びたい。そしてそれこそが「想像」の結果なのではないかと思うのです。「想像」は本来径庭を前提とし、且つ径庭を無化します。

「想像するということは、もう自動的にユーモアを含んでいる」といとうせいこうは述べています。ユーモアも対象との径庭を前提としているとすれば、それは即ち想像とも直結するので、彼は「想像力こそがユーモア」だとさえ言い切ってしまうわけですが、でもそれと同時に想像は径庭を無化するのです。

このような想像力の距離感は死者と生者の距離感にも似て、二義的です。いずれにせよ、生/死を生きる/死ぬ切実さを想像力はもたらし、その想像力は『想像ラジオ』という「虚構」を毛細血管のようにくるみ、またくるまれているのです。